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陰律無情

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私と『陰律無情』の間に起きた小さな出来事を書き残すべきかどうか、長い間ためらっていた。私は一介の凡夫で、三界の内情や六道の真相の深さを知らない。そのうえ、この経験は確かに個人の予想を超えていた。以前は他人の話を読むばかりだった。『寿康宝鑑』『欲海回狂』『万善先資』などには、多くの人が経験した、このような冥府に関わる出来事が記されている。しかし今回の私の経験は、特に『陰律無情』と関わっており、今後の人生のことにも触れるため、ずっとすべてを明かす勇気がなかった。ただ、この本を紹介するときに、身近な人へ少し漏らしたことがある程度だ。それでも、『陰律無情』に強い偏見を持つ人がかなりいるのを見て、やはり話すべきだと思った。今も少し恐ろしく、どんな結果になるか分からないが、私はただ、自分の経験を事実に即して語るだけだと考えている。あなたがどんな思想や立場を持ち、どう見るにせよ、三界で起きた事実はやはり事実であり、誰にとっても事実である。ただ皆さんに知ってほしいのは、『陰律無情』には確かに並々ならぬ由来があり、真実で、偽りではないということだ。仏法は衆生に事実の真相を明らかにするものであって、事実を否定するものではないと思う。『金剛経』にも、『阿耨多羅三藐三菩提心を発す者は、法について断滅の相を説かない』とはっきり記されている。大きな棒を振りかざすように、仏法の大審判者を気取る人がいる。だが、事実を理解していないなら、仏法も真に理解してはいないはずだ。相対を絶した観照によって事実の真相を見通せるわけでもなく、なお一介の凡夫でありながら、自分の眼、耳、鼻、舌、身、意に限られた思想や見方に基づいて、あえて審判者を気取るとは、あまりに傲慢ではないか。自分を誤らせ、人をも誤らせるこの罪業を、考えたことがあるだろうか。

二か月前、つまり三月中旬、ある仏教書の流通所で、一冊の『陰律無情』をいただいた。それ以前にも見かけたことがあったように思う。よい本だとは感じたが、何らかの見方に影響されていたのか、ただの勧善書にすぎないといつも思い、真剣には読まなかった。今回は流通所で読んで、とてもよく書かれていると思った。少なくとも、何年も前のある時期、自分に魂がなくなったかのようだったことが、分かった気がした。大通りにいても十数メートル先は何もはっきり見えず、まったく気力がなく、ぼんやりして意識がかすみ、ただ肉体だけが歩いているようで、ごく単純な思考や反応しかできなかった。どうやら邪淫の悪業によって、寿命がまだ尽きないうちに、先に三魂を勾引されたのだろう。

家へいただいて帰り、改めてよく読んでみると、確かにすばらしいと思った。自分の長年の経験からも、そのとおりだと感じられ、邪淫の結果が本当によくなく、恐ろしいことも分かった。そこで、地元のある地蔵道場へもう一まとまり送って、もっと多くの人に読んでもらえたらよいと思った。ただ何となく考えただけで、そのまま過ぎ、特に気にも留めなかった。用事をし、食事をし、眠った。ところがその夜、夢を見た。夢の中で私は、本の束を抱えて地蔵壇林へ届けていた。同時に一つの声が、「地蔵壇林へ『陰律無情』を一束届ければ、あなたは永生を得る」と告げた。目覚めると、不思議でもあり、面白くもあった。昼間ふと思いついただけで、自分でも忘れていたことなのに、こんな夢を見たのだ。永生とは何だろう。それでも、とにかく地蔵壇林へ『陰律無情』を一束届けることは善いことだから、やってみようと思った。出勤してからコンピューターで上官玉華のブログを見つけ、さらに善心蓮心正法生活網も見つけた。しかし、善いことには障りが多いというのか、インターネットバンキングの証明書が期限切れだった。『陰律無情』のほかに、長く探しても見つからなかった『慈悲地蔵宝懺』なども一緒にいただこうとした。『陰律無情』は無料で結縁する本である。ところが、どうしても証明書を更新できず、いつも時刻が同期しないという状態になった。銀行の顧客窓口と何度も連絡を取り、試しても解決しなかった。私たちは工業地区におり、昼間は市街地から離れているので、繰り返し試すのはかなり面倒だった。しかし、あの夢が理由で続けたのではない。その夢は当時、本気には受け取っていなかった。ただ、善いことをしようと思った以上は、意志を固めてやり遂げ、少し困難に出会ったからといって投げ出してはいけないと考えたのだ。その後、わざわざ市街地の銀行窓口へ行って証明書を更新し、事務所へ戻って、ようやく手続きができた。『陰律無情』『慧岸明燈文集精華版』『慈悲地蔵宝懺』などを含む、本を三箱いただいた。本が届くと、そのうち一束を地蔵壇林へ届けた。以前の夢は気に留めず、本当のこととも思わず、ほとんど忘れていた。ただ一つの善いことを行うつもりで、この件に取り組んだのだ。だが、その夜、また夢を見た。夢には二人の役人らしい者が現れた。顔色は赤黒く、額には幾筋ものしわがあり、おおむね四角い顔立ちだった。『玉暦宝鈔』に描かれる冥府の役人の姿にそっくりで、一目で人間界の人ではないと分かった。融通や親しみやすさに欠け、受ける印象はただ『公』『無情』だった。どんな情にも動かされず、公正に職務だけを行うようだった。もう一人、その土地の一帯を管轄する者らしい姿もあった。土地神なのか、竈神なのかは分からない。二人の役人は一枚の大きな紙を私に渡した。そこには私のことが、行ごとにびっしりと記されていた。各行の左端はすべて私の名前で、字は非常にはっきりしており、その右側に記録の文章があった。私はその三人の目の前で、記録された紙を細長くちぎり始めた。しかし、ずいぶん丈夫なようで、うまく破れなかった。そのとき、その土地の管轄者らしい者が二人の役人を脇へ呼び、何か相談した。私はなお紙を破いていた。しばらくして三人が戻ると、今度はその紙に火をつけて、すっかり焼くよう私に言った。私の心配を永久になくそうとしているようだった。焼き終えると、二人の役人は立ち上がって私を一目見た。やはり公務を公務として行うだけの、親しみや融通の余地がまったくない表情のまま、去っていった。私は目を覚ました。なんと不思議なことだろう。こんな夢を見て、これほど真に迫った一幕が、たった今起きたのだ。私は三界の内情も、六道輪廻の真相の深さも知らず、人に話す勇気はなかった。しかし、『陰律無情』は確かに冥府が世に送り出し、加持によって流通させているのだと分かった。冥府の仕事は、まことに一諾千金で、言ったことを必ず実行する。『陰律無情』には、『陰律を擁護する者は、天堂へ昇り、地獄の名簿から名を除かれる』とある。そして同書に書かれているとおり、『ひどく私的なことをしても、誰も知らないと思ってはならない。善悪の一念は、そのまま陰司冥府の善悪記録簿へとつながる』のである。

これで終わりだと思っていたのに、間もなくまたあの役人と会うことになるとは、まったく思わなかった。今度は向こうが来たのではなく、私が下へ呼ばれたのだ。話は初めからしなければならない。まず一つの挿話を述べよう。一昨年、九華山へ登り、西天寺に泊まった。落ち着くとすぐ、大殿へ仏を拝みに行った。拝礼を終えて立ち上がり、外へ出ようとしたとき、戸口のそばの机の後ろに座っていた年配の尼僧に呼び止められた。「あなた、家で『金剛経』を読んでいますね」と言われた。そのとき上着の内側の胸ポケットには小型の『金剛経』が入っていたので、「ああ、『金剛経』はいつも持ち歩いています」と言いながら取り出した。すると尼僧は、『持っていると言っているのではありません。読んでいると言っているのです。少なくとも三か月は読んでいますね』と言った。私は驚いた。このようなことを言える人に会ったのは初めてだった。確かに、そのころ私は『金剛経』を読んでいた。そこで同行していた息子、甥、姪を呼んだ。尼僧の言葉は簡潔で要を得ており、どれもよく当たっていて、皆とても励まされた。夕方戻ってから、再び大殿へ行くと、若い女性が仏前にひざまずいて『地蔵経』を読んでいた。母親らしい人が戸口に立っていた。尋ねると中国東北部から来た人で、やはり尼僧に的確なことを言われ、旅行中も山で『地蔵経』を読もうと発心したのだという。尼僧は非常に慈悲深く、飽きることなく熱心に私たちを諭し、さまざまな面から導いて、しっかり修行するよう勧めた。生活、家庭、仕事のこと、前世から今生のことまで話して妻を説き勧め、たくさんの経典、念珠、飾り物などをくださった。妻は深く心を動かされ、帰ってからしばらく真剣に『地蔵経』を読んだ。山を下りる前、私は将来に災難や困難があるかを尋ねた。尼僧は『地蔵経』一冊と地蔵の像を取って私に渡し、「何も尋ねなくてよいのです。普段は仕事で時間がないなら、土曜と日曜に、家で一日一回ずつ『地蔵経』を最初から最後まで読誦すれば、すべてよくなります」と言った。帰ってからしばらくは続けたが、なんとその後、怠けてしまった。しかし、尼僧のこの上なく慈しみ深い声、顔、笑顔、そして繰り返しの勧めや言いつけを思い出すたび、ひどく恥ずかしくなった。およそ昨年の後半から、週末には一日一回ずつ『地蔵経』を最初から最後まで読誦することを、またほぼ続けるようになった。

話を戻そう。『陰律無情』を結縁して届け、あの夢を見てから何日かたつと、私は修行を少し怠けるようになった。本当に習気がひどく重いのだ。『地蔵経』を読むべきときに読まないことが何度かあったが、自分で定めた朝のお勤めだけは続けていた。するとある夜、眠ってから、私は下方へ降りて、ある部屋に入ったようだった。部屋には長方形の会議机があり、会議中らしかった。正面中央に座っていたのは、おそらく主宰者で、前の夢でやり取りしたあの役人に見えた。私が入ると、彼はやはり私情を挟まず、細部まで厳格で、非常に真剣な表情をして、『なぜこのところ経を読まないのか』と尋ねた。その場では、自分でもどうすることもできず、ありのままに、「週末の午後は『地蔵経』を読んでいませんが、朝にはまだ『普賢十大願』と『金剛経』を読んでいます」と答えたようだった。すると突然、その役人の顔に、喜びに満ちた明るい笑顔が浮かび、安堵と満足の気持ちが伝わってきた。私はそのとき、非常に驚き、めったにないことだと感じた。私の印象では、彼の顔にこんな表情が現れるなど、本当にまれなことだった。まるで夜空に太陽を見るようだった。私が仏経を読んでいるというだけで、こんなにうれしそうな笑顔を見せるとは。仏経を読誦することが、ここではすぐに、これほど特別に扱われる理由になるとは思わなかった。その後、『陰律無情』を結縁した状況も確認したようで、全体としては比較的満足しているようだった。

『陰律無情』を学び、伝えることには、非常に現実的で直接的な、自分に関わる利益があると感じた。それは、どれだけ金を出しても買えないものだった。そこで、私の兄弟姉妹にも学び、伝えてもらい、金では買えない得がたい利益を、少しでも受け取ってほしいと思った。しかし私たち兄弟姉妹は同じ場所に住んでいないので、簡単ではなかった。そこで父母に渡し、父母がどれかの子の家へ行くとき、何冊か持っていってもらおうと考えた。そのころ父母は兄の家に住んでいた。ある金曜の午後、およそ二時過ぎにこの考えが浮かび、父母のところへ行くことにした。列車に乗って別の町へ向かい、午後六時過ぎに兄の家へ着いた。中へ入ると驚いた。兄本人は外出していて自宅にいなかったが、ほかの兄弟姉妹はそろって居間に集まっていた。尋ねると、皆『あなたを待っていたんだ』と言った。弟たちのうち上の弟に『どうしてここにいるんだ』と尋ねた。彼はこの町で働いていない。すると、『午後は会議の予定だったけれど、急に中止になったので、車で父母に会いに来た』と言った。妹にも『どうしてここにいるんだ』と尋ねると、『午後に用事で外出して、済んだらもうすぐ五時だったから、職場へは戻らず、父母に会いに来たの』と言った。一番下の弟にも『どうしてここにいるんだ』と尋ねると、『清明節に父母は故郷へ帰れなかったけれど、僕は帰っていて、今日の午後戻ったばかりなんだ。先に父母の顔を見に来た』と言った。私たち兄弟姉妹が普段、一度に集まることはめったにない。誰かの家で行事があり、皆が出かけるときでさえ、同じ時間帯にそろって到着することはほとんどなかった。そこで少し言葉を交わし、それぞれに『陰律無情』を何冊か結縁してもらった。各自、家の用事があり、他の土地へ急いで戻らなければならない者もいたため、皆慌ただしく帰っていった。最後にはこんなにも速やかに本を彼らの手に渡せた。これはきっと、皆に『陰律無情』を学び伝えてほしいという考えが生じた後、仏や天地の神力による加持があった結果なのだろう、と私は思った。

何日かすると、妹から突然電話があり、『陰律無情』はどこで印刷しているのか、と尋ねてきた。息子が印刷費を寄付したいのだという。息子は中学三年生で、とても手に負えない小さな暴君だった。私は不思議に思い、どういうことか尋ねた。妹は言った。「この『陰律無情』は確かによい本だけれど、家ではもともと私だけが読んでいて、子どもには読ませていなかったの。でも、いつの間にか自分で読んでいて、突然『お母さん、僕には罪がある』と言ったのよ。どうしたのか聞くと、『前に遊びのために、わざとたくさんの蟻を傷つけたんだ。自分のお金を全部、『陰律無情』を印刷するために寄付したい。仏さまの前で願を立てて、僕が傷つけた小さな命たちを加持して救い上げてくださるよう、仏菩薩に祈りたい』と言ったの。」妹は続けて言った。「この『陰律無情』は本当に大きな功徳を立て、大いに助けてくれたわ。手に負えなかったあの子が、こんなに大きく変わるなんて。」この甥は、頭はとてもよいものの、勝手なことをして問題ばかり起こし、しつけが難しく、大人たちも大いに頭を悩ませていた。自分の金は自分で使い、大人に管理させようともしなかった。それが今回は、自分から進んで発心し、金をかき集めてすべて寄付し、自分には一銭も残さなかったのだ。

『雑阿含経』には、次のような譬えがある。「爪の上の土のように、人の道にある衆生もまたそのようである。大地の土のように、人ではないものもまたそのようである。」『涅槃経』にも記されている。あるとき仏陀は、地面からほんの少しの土を手につけ、迦葉尊者に尋ねた。「私の手の上にあるこの土と、十方世界の大地の土では、どちらが多いか。」迦葉尊者は答えた。「もちろん、十方世界の大地の土の方が多うございます。」仏陀は言った。「人身を得て善法を実践する者は、私の手の上の土のように少ない。人身を得ず、悪業を行う者は、十方世界の大地の土のように多い。」また仏経には、「人身を得る者は爪の上の土のごとく、人身を失う者は大地の土のごとし」ともある。私たちは始まりのない昔から、実に無量の地獄の業を造ってきた。この問題を直視できない人を、私は頭が明晰だとは思わない。『陰律無情』は、ほかの本のように、誰かが広く資料を集めて書いたものではなく、まして誰かの創作でもない。尊敬する同門の上官玉華さんは、ただ語り手、事実を語る人であり、一つの任務を果たしているのである。これらの目を驚かせ、心を震わせる事実は、善法を実践し、戒律を守り、仏法を修行することの現実性、緊急性、重要性を、私たちに明らかにしている。

最後に、『陰律無情』が「聖母マリアは観世音菩薩の化身である」「私が見た菩薩の示された姿は、カトリックの聖母マリアの慈悲深い姿だった。判官は、聖母マリアは実は観世音菩薩の化身の一つとしての示現だと言った」と述べることを受け入れず、さらには「間違っている」と言う人々について述べたい。私は、同門の上官玉華さんは自ら経験した事実を語っているのだと思う。間違ったことを言っているのではなく、あなたが理解していないのだ。『金剛経』には、こうある。「須菩提よ、どう思うか。身相によって如来を見ることができるだろうか。」「いいえ、世尊。身相によって如来を見ることはできません。なぜなら、如来の説かれる身相は、すなわち身相ではないからです。」仏は須菩提に告げた。「およそ相のあるものは、すべて虚妄である。諸相が相ではないと見るなら、すなわち如来を見る。」また、「須菩提よ、どう思うか。具足した色身によって仏を見ることができるだろうか。」「いいえ、世尊。如来を、具足した色身によって見るべきではありません。なぜなら、如来は、具足した色身はすなわち具足した色身ではなく、それを具足した色身と名づける、と説かれるからです。」「須菩提よ、どう思うか。如来を、諸相が具足していることによって見ることができるだろうか。」「いいえ、世尊。如来を、諸相が具足していることによって見るべきではありません。なぜなら、如来は、諸相の具足はすなわち具足ではなく、それを諸相の具足と名づける、と説かれるからです。」さらに、「もし色によって私を見、音声によって私を求めるなら、その人は邪道を行じ、如来を見ることはできない」とある。あなたは、仏がどのような身相で示現すべきで、どのような身相では示現すべきでないと言うのか。どの姿を示したときこそ、仏の示現だというのか。あなた自身の心に人と我の見があり、思いの中に人と我への執着があって、世間のあらゆる姿を捉えて分別し、虚を実とし、仮を有として執着し、断滅という一方に偏った見を生じているのだ。それでどうして、あらゆる法において究極に円満かつ自在である仏菩薩の神通と智慧が、ある特定の姿では示現しないなどと、みだりに断定できるだろうか。

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』には、はっきりとこうある。「仏は無尽意菩薩に告げた。『善男子よ。ある国土の衆生が、仏の身によって救われるべきなら、観世音菩薩はただちに仏の身を示して法を説く。辟支仏の身によって救われるべきなら、辟支仏の身を示して法を説く。声聞の身によって救われるべきなら、声聞の身を示して法を説く。梵王の身によって救われるべきなら、梵王の身を示して法を説く。帝釈の身によって救われるべきなら、帝釈の身を示して法を説く。自在天の身によって救われるべきなら、自在天の身を示して法を説く。大自在天の身によって救われるべきなら、大自在天の身を示して法を説く。天大将軍の身によって救われるべきなら、天大将軍の身を示して法を説く。毘沙門の身によって救われるべきなら、毘沙門の身を示して法を説く。小王の身によって救われるべきなら、小王の身を示して法を説く。長者の身によって救われるべきなら、長者の身を示して法を説く。居士の身によって救われるべきなら、居士の身を示して法を説く。宰官の身によって救われるべきなら、宰官の身を示して法を説く。婆羅門の身によって救われるべきなら、婆羅門の身を示して法を説く。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身によって救われるべきなら、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を示して法を説く。長者・居士・宰官・婆羅門の婦女の身によって救われるべきなら、婦女の身を示して法を説く。童男、童女の身によって救われるべきなら、童男、童女の身を示して法を説く。天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人、非人などの身によって救われるべきなら、それぞれの姿を示して法を説く。執金剛神の身によって救われるべきなら、執金剛神の身を示して法を説く。』」これを見れば、諸仏菩薩はまったく衆生の状況に応じて姿を示し、法を説くことが分かる。衆生がどのような身によって救われるべきかに応じ、その身を示して救うのであって、執着すべき決まった姿などない。したがって、聖母マリアの身によって救われるべき者には、その姿を示して法を説くのである。仏菩薩の大慈悲心、大平等心に、見捨てる衆生などいるだろうか。六道のどの道かすら問わないのに、まして人間界のどの宗教かを問うだろうか。究極に円満かつ自在である仏菩薩の神通と智慧に、衆生の心に応じて示せない身相などあるだろうか。よく考えてほしい。自分の、衆生を平等に見ない心によって、仏の心を取り違えてはならない。姿に執着して外へ求め、人と我を分け隔てる自分の心によって、仏の心をみだりに解釈してはならない。99

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