命がわずかに長らえても、旧知の人々は胸を痛める。
「命」とは人の生命。「延」とはとどまることである。「片刻」とは、一時辰の半分にも満たない短い時間のこと。「故旧」とは、長年付き合ってきた親戚や友人のことである。「酸心」とは、悲しみ、心を痛めるという意味である。邪淫を好む者の命がわずかな間だけ長らえて、まだ死んでいなくても、その姿を見た旧知の人々は、誰もがその人のために心を痛めずにはいられない、ということである。
遠く過ぎた日々を思えば、どうして振り返るに忍びようか。
「遥」とは遠いこと。「憶」とは、過ぎたことを思い返すことである。「当年」とは、以前の日々のこと。「何堪」とは忍びないこと。「回首」とは振り返ることである。今の時点から、まだ悪い報いを受けていなかった頃を思い返せば、当時はどれほど楽しかったことか。本当に、振り返って見るに忍びなくなる、ということである。
このような末路をたどっても、嘆くには及ばない。
「如此」とは、このように、ということ。「下落」とは、落ちぶれた末路のこと。「無庸」とは、必要がない、ということである。邪淫を好む者が悪い報いを受け、このような末路をたどるのは、当然のことでもある。その人のためにため息をつき、哀れむ必要はない、ということである。
また、腕のよい職人や巧みな工匠も、守るべき規範を守らなければならない。
「工」も「匠」も、さまざまな工業の技術者など、技術を持つ職人を指す。「良」とは精良なこと。「巧」とは妙なる巧みさのこと。「規模」とは、規則や法度のことである。技術を学び身に付けた者は、当然、師から伝えられた規則や法度を守るべきであり、決して邪淫や色欲にふけってはならない、ということである。
ある者は師の教えに従わず、宿屋に泊まる約束をひそかに交わす。友の言葉にも耳を貸さず、たちまち月下の楽しみを思い描く。
「師訓」とは、技術を教える師匠が、もともと弟子に邪淫や色欲にふけるなと教えていたことをいう。「不遵」とは、従わないこと。「暗許」とは、よその家の女性をひそかに誘い、宿屋や旅館で会って、不義の関係を持つ約束をすることである。友人が邪淫にふけるなと忠告しても耳を貸さず、どうしても月明かりの下へ出かけて、よその家の女性を誘惑しようとする。