この問答で判官は、同性への愛欲を邪淫に数え、その由来を過去の生の性別と今の身体との関係から説明します。過去に女性としての生を重ね、今は男性の身体になっても以前の愛恋のあり方が続く場合を挙げ、女性の身体には逆の説明を添えます。そのうち、ほかの邪淫を行わず、共に暮らす伴侶を求めて夫婦と呼び合っている場合には、「五十地獄年」という刑期を示します。さらに、思うだけでも戒に触れるのかという問いには、意念が動くと身体の「真気」も動き、「正気」が損なわれると答えます。生命を支える気や、心身を整える気として、これらの語を用いています。前の生から続く傾向、今の念頭、実際の共同生活を、判官はこの順に取り上げています。
刑期と心の変化
刑期の数字には、その後の状態を確かめる条件が添えられます。電眼鉄丸の節では八百年が挙げられ、以後も神識の変化を見て継続が決まり、さらに別の地獄へ移る場合もあります。連想地獄には五百年という説明があり、前節の共同生活に関する場合には五十地獄年が示されます。同じ欲念をまた生じさせる潜在的な傾向を、判官は「種子」と呼びます。その五十年の間に、この種子が清まれば早く離れられ、残っていれば三十年が加わります。原文には「年」と「地獄年」という二つの表記があり、経過した時間と心の変化の双方を、離れる条件として挙げています。
阿鼻は音を写した名で、意味は無間、苦しみに間断がないことです。阿鼻の章では、偽の薬材や武器の取引で生命を傷つけた男性に「永不超升」、すなわち「永遠にここを離れて、よりよい生へ移ることはない」という厳しい言葉が告げられます。同じ章の別の女性には、口では改めると言っても、今は苦しみを急いで離れたい心が先にあり、心が清まった時にまた救いに来る、と地蔵が説きます。それぞれに相手と時点があります。東岳の問答では、地獄の悪業を受け終えて余報に応じた生へ移る道、親族の大きな回向が過去の善縁や福に結びついて救いとなる道も説明されます。地獄を離れること、残る報いを受けること、その後も修行することが続いています。自分から育てられるのは、過ちを認め、悪い因を止め、善い行いを重ねる力です。
第5章 過ちを改めて生き直す
過ちを認めること
自分の過ちを認める時には、実際に何をしたのかに心を向けます。誰を、どのように傷つけ、なぜその行いを続けてきたのか。仏教でいう「懺悔」は、ありのままに認め、悔い改めることで、「さんげ」とも読みます。苦しい境遇にあれば、そこを離れたいという願いが生まれます。そこから、今まで顧みなかった生命の痛みに気づき、自分の行いを変えようとする時、心は新しい方向へ動き始めます。
悔い改めた心を、これからの暮らしに保とうと願うことが「発願(ほつがん)」につながります。戒を守り、人の役に立ち、生を重ねても続けようとする願いです。その生き方を学ぶよりどころが、仏・法・僧の三宝です。悟りを開いた仏、その教え、教えを実践する人々の集まりを敬い、よりどころとすることを「帰依(きえ)」といいます。さらに、自ら悟りを求めるとともに、すべての生命を苦しみから救いたいと願う心が「菩提心(ぼだいしん)」です。自分の過ちを省みるところから、誰かの安らぎのために働こうとする願いへと、心が広がります。
同じ行いを重ねない
過失に気づいた後には、次に何に気を配ればよいかが見えてきます。食べ物をうっかり傷ませてしまった時の問答では、その過失を悔い、以後の扱いに注意するよう勧めています。悔やむあまり、傷んだ物を無理に食べて身体を損なうことまでは求めていません。同じことを防ぐために、どこで気づけたか、どの習慣を改められるかを考える。日々の扱いを実際に変えるところに、「後は繰り返さない」という懺悔の続きがあります。