亡き子を思って修める善
子の離苦を助けるのは、父母自身の真心からの懺悔と、実際に善を行うことです。第二十三章は、心からの懺悔を内からの力、福を積んで怨みを少しずつ解く善行を外からの力と呼びます。親族が回向できる行いには、読経、放生、仏への供養、布施、橋や道を整えることなどがあります。その功徳の大きさには、行う心も関わります。苦しむ生命を助けるために行い、返礼を求めず、終えた後にも見返りを気にかけない。判官は、そのような心と行いによる功徳を限りなく広大なものとし、子へ回向すれば、妊娠を中断した日から四十九日以内に善趣へ超昇できると答えます。この日数には、先に述べた願いと行いの条件が伴います。子を指定して回向する場合の配分は、第二十四章で、七分のうち六分が善を行う人に、一分が子に届くと示されています。
経は何回読み、どれほどの日数を要するのでしょうか。最初の答えは、少なくとも『地蔵経』を四十九部読むというものです。一部は、経典全体を初めから終わりまで読む一回に当たります。続いて、記録の中で最も早く超昇した例が語られます。ある母は四十九回の読誦に加え、大きな願いを起こして善行を続け、妊娠を中断した最初の日から数えて四十九日目に、子が超昇しました。きわめてまれな例で、その母も後に、自他を利益する清らかな修行者となります。四十九部は読む回数、四十九日は経過した時間であり、どちらにも願いと生き方の変化が伴っています。子ごとの恩怨、必要な功徳、怨みが解けるまでの時には、それぞれ違いがあります。
枉死哭城を離れた後の行き先は、届く功徳の大きさと、子自身の業や福に関わります。福が十分であれば西方の浄土へ往生できますが、そのような例は少なく、ほかに天界へ上る子、人間に生まれる子がいます。さらに、浄土には九品の蓮華、天界には欲界・色界・無色界、人間には富貴や貧しさなどの違いが挙げられます。九品は往生前の行いに応じて説かれる九つの品位で、蓮華は浄土に生まれる姿と結びついています。親族の修めた功徳が、その助けに足りるかどうかも関わります。真心から改め、同じ行動を繰り返さず、善を続けてほかの人にも働きかけることは、親族自身の未来をも変えていきます。子への思いは、後の日々に生命を支える行いにもなります。
位牌と供養の場
子のために位牌を設けることには、どこに安置し、そこでどのような仏事が続くかも関わります。第二十四章の答えは、二つの場合を分けます。嬰霊の位牌を自宅に置くと、超昇を遅らせ、ほかの霊を招く場合もあります。清らかで、道理と仏法にかなう仏堂に安置し、香の供養を受け、経を聞くことには助けがあります。位牌が供養する子を示し、その場所と仏事が、子に届く助けを形づくります。清らかな仏堂では教えを聞く機会が得られ、親族も自分の懺悔と善行を続けます。
同じ答えは、霊的な能力があると偽って費用を受け取り、人を欺く仏堂にも触れます。そのような行為を批判したうえで、他人に懺悔を任せるより、親自身が真心から懺悔するほうが、効き目は早く、よいと説きます。清らかな仏堂で子が経を聞く助けには、先に述べた働きがあります。親族の真心は、自ら子に向けて表し、これからどう暮らすかにも表れます。供養を手配するとともに、自分で過ちに向き合い、行動を改めることによって、子を思う実践が日常にも続いていきます。
思いを託す供養
日本の水子供養では、育つ日々を迎えなかった子に花を供え、手を合わせ、心の中で言葉をかける。そのときに託す思いは、人によってさまざまです。言葉にしにくい悲しみや懐かしさを静かに置きたい人もいれば、流産、死産、生まれて間もない別れの後に、子のために祈る人もいます。供養を通して、伴侶や家族、自分自身との関係に向き合うこともあります。水子供養は、こうした異なる経験を受けとめる場になります。ともに暮らした記憶がわずかであっても、その子は思いを寄せ、気にかけ、心の中で語りかける相手として残ります。
供養の心には、悲しみ、感謝、悔い、祈り、これからの暮らしへの思いがともにありえます。育つことのできなかったいのちを思う経験は、今そばにいるいのちへ、いっそう心を配るきっかけにもなります。読経や回向、続けていく善行は、その思いに繰り返し実践できる形を与えます。自分の身体をいたわり、日々の過ごし方を整え、親しい人との関係を大切にすることも、その先にあります。いのちの始まりと別れの後にも、やわらかな心で、誠実に引き受けていく日々が続いています。