同じ行動にも異なる動機がある
同じ品物を買う場合にも、業の性質は動機によって変わります。城隍が挙げるのは、三人が同じ黒い服を買う例です。一人は、貧しい隣人に贈るため、汚れが目立たず洗濯の手間も少ない黒を選びます。もう一人は、夜に盗みを働くのに都合がよいと考えます。三人目は、買っても買わなくてもよいと思い、店の人に勧められるまま買います。それぞれが、善業・悪業・無記業の例に当たります。
「無記(むき)」とは、善とも悪とも定められない性質をいいます。ここで問われているのは、衣服の値段や色の好みよりも、何をしようとしているかという心の方向です。隣人の負担を軽くしたいという思いは善を生み、人の物を奪うための準備は悪を育てます。日常の小さな選択にも、その後の行いを導く意志が含まれています。
城隍は続いて、善業が重ければ人間界や天界へ、悪業が重ければ地獄・餓鬼・畜生へ、無記業が重ければ多くは人や鬼の世界へ向かうと説きます。これらは、いずれも輪廻の中での生まれ変わりです。そこからさらに解脱を求める修行には、持戒や念仏とともに、すべての苦しむ生命を救いたいという清らかな願いが関わってきます。
身・口・意にわたる行い
人に何かを手渡すときには、物を差し出す動作と、添える言葉と、何のために渡すのかという意志が、一つの出来事の中で働きます。身体でする行いを「身業」、言葉による行いを「口業」、心の行いを「意業」といい、合わせて「三業」と呼びます。先の黒い服の例では、買う動作を方向づけていたのが意業です。その思いが言葉や動作になると、相手の暮らしにも具体的な影響が及びます。戒は、この三つにわたって行いを整えるためのよりどころになります。
生活の基本となる五戒は、命を奪わない「不殺生」、与えられていない物を取らない「不偸盗」、婚姻外の性関係などを離れる「不邪淫」、偽りを語らない「不妄語」、酒を飲まない「不飲酒」です。『陰律無情』は、それぞれを食べ物、仕事場の物、夫婦の生活、日々の言葉などに即して説明します。戒は、生活のどこで心と行いを整えるかを示す約束でもあります。
十善は、身・口・意の全体にわたります。身体に関わる三つは、殺生・盗み・邪淫を離れること。言葉に関わる四つは、妄語・両舌・悪口・綺語を離れること。心に関わる三つは、貪り・怒り・誤った見方を離れることです。五戒にある不飲酒は、十善では独立した項目にならず、十善では言葉と心の働きがより細かく示されます。命を守り、誠実に語り、人への思いやりを育てるという実践が、三業のすべてに及ぶのです。
六つの感覚とはたらき
言葉を発したり行動に移したりする前には、何かを見て心が動き、話を聞いて思いが浮かぶことがあります。こうした認識のよりどころを、仏教では眼・耳・鼻・舌・身・意の「六根(ろっこん)」と呼びます。眼は色や形、耳は音、鼻はにおい、舌は味、身は触れた感覚、意は心に浮かぶ対象に関わります。「根」は認識を支える基という意味です。最後に意が含まれ、目の前に物がなくても、思い出したことや考えたことが心の対象になります。