対象を知る働きには、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という「六識」の名があります。たとえば、声を聞いているときの認識と、その声を後から心に思い浮かべているときの認識には、それぞれ違う働きがあります。六根が認識のよりどころであるのに対し、六識は、そこに対象との関わりから生じる認識です。見聞きしたことをどう受け止め、どのような意志を育て、何を言い、何をするか。認識は、その過程を通して身・口・意の行いに関わっていきます。
心や感覚が互いに関わることは、果報の説明にもつながります。『楞厳経』の「六交報」は、六識によって造る業と、六根が交わり合って受ける報いを説いています。ある一つの働きが中心となって始めた行いにも、ほかの働きが加わり、報いもそれらに及ぶという関係です。『陰律無情』にある、言葉の業によって舌と全身が苦しむ場面を読むときにも、口だけで完結しない行為とその影響という背景が見えてきます。
知っていたことと選んだこと
見たり聞いたりして知ったことを、その後の行いにどう結びつけるかも問われます。外からは似た結果に見えても、知らないうちに生じた過失と、事情を知りながら意図して繰り返したことでは、選び取った行為が違います。無心の過失については、気づいた時に悔い、次に同じことが起きないよう注意する道が示されます。すでに注意を受けている場合には、その言葉をどう受け止め、何を続けたかまでが、行いの経緯に含まれます。
人の物を使う場合には、持ち主の同意が、その行為を成り立たせる大切な条件になります。自分が使いたいと思ったことと、相手が使ってよいと認めたことは、それぞれ別です。手の届く場所にあることや、使う量が少ないことだけでは、同意があったことにはなりません。原書の「同意を得ていない場合」という条件は、何をどこまで使ってよいのかを、相手との間で確かめる必要を示しています。
知っていたこと、選んだこと、相手が認めたこと、実際に生じた影響を合わせると、行為の意味が具体的になります。公の法律を守ることに加え、戒を通して、自分だけが知っている動機や習慣にも目を向けます。誤りに気づいた後には、その事実を認め、続いている行為を止め、以後の扱いを改めることができます。心の向きは、そうした次の選択にも表れます。
言葉の習慣を変える
言葉は、相手の理解を助けることも、判断を誤らせることもあります。偽りを語る「妄語」、人を傷つける荒い言葉である「悪口」、人の間を裂く「両舌」、心を乱す言葉である「綺語」は、口業を考える四つの名称です。何を言ったかに加え、どのような意図で伝え、相手や周囲に何が生じたかが、その言葉の結果に関わります。
妄語の問答では、貪り・怒り・愚かさを伴う「真妄語」と、生命を救うためだけに語り、自分の利益を求める心が少しもない「假妄語」が分けられます。真妄語の報いには、他者に生じた害の大きさも関わります。假妄語は地獄の報いを受けず、功徳となる場合もあります。何を得ようとして、その言葉を選んだのかが、ここでの分かれ目になります。
食事に誘われたとき、相手に料理を作らせたくないことや、借りを作る心配から、まだ食べていないのに「もう食べました」と答える例は、「方便妄語」と呼ばれます。自分の都合も含まれるため、假妄語には入りません。生きている間に真心から懺悔して清める道があり、繰り返すと偽りを言う習慣が育つことも説かれます。相手への配慮を保ちながら、事実に即して答える言葉を選ぶことが、日々の練習になります。