仏・法・僧と菩薩
仏像を拝み、経の教えを聞き、それを伝える僧侶に学ぶ。仏教の暮らしには、それぞれのよりどころがあります。迷いを離れて真理を悟った存在が「仏」、その教えが「法」、教えを受け継いで共に修行する人々の集まりが「僧」です。この三つを尊いよりどころとして「三宝(さんぼう)」と呼びます。三宝に帰依することは、仏を敬い、教えを学び、修行を受け継ぐ僧団に支えられながら、礼拝や読経、戒を守る実践を自分の暮らしに取り入れることです。
地蔵、観音、文殊の名に付く「菩薩」には、悟りを求め、苦しむ生命を救おうとする願いと行いがあります。それぞれの名は、その願いを具体的な姿と救いの働きによって伝えます。第三十二章で判官は、地蔵・観音・文殊が菩薩の姿を示しながら、すでに仏の功徳を備えていると説明します。観音が遠い過去に成仏した名として挙げられるのが、「正法明如来」です。同じ救いを担う存在にも、現す姿と名の違いがあり、その名が伝える願いも結びついています。
僧侶は出家して仏法を学び、修行を受け継ぎます。在家の人は、出家せずに日々の生活の中で教えを学び、戒を守り、修行を支えます。読経、布施、説法、護法を通して、それぞれの位置から助け合うことで、ほかの人にも教えを聞き、実践する機会が届きます。三宝は、悟りと教えに加え、その教えを人が受け継ぎ、後の人へ伝えていく営みに関わっています。
地蔵・観音・文殊の願い
六体並んだ「六地蔵」は、救いの及ぶ広がりを姿に表しています。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界のそれぞれに、苦しむ生命を救う地蔵の願いがあります。『陰律無情』では、地蔵は冥府で五戒を説き、悔いる心を起こした生命に、教えを聞く機会を与えます。苦しみが一時静まると、教えを聞き、自らの過ちを認め、修行を続けることができます。六道で受ける境遇が異なっていても、教えに応じて後の行いを改める道があります。
観世音菩薩は苦しむ声を観じて救いをもたらし、日本で広く用いられる「観音」はその略称です。文殊菩薩は智慧を表す菩薩として知られます。冥府にはほかにどのような救い手がいるかという問いに、第三十二章は観音・文殊と地蔵を並べ、阿弥陀仏と薬師仏も挙げています。阿弥陀仏には西方極楽浄土へ生まれたいという願いが結ばれ、薬師仏には病苦を救う願いがあります。名号に伴う願いによって、救いにもそれぞれの働きが伝えられています。
地蔵の救いには、務めを担うほかの存在も伴います。第二十九章の「南方三聖」は、地蔵菩薩、道明法師、閔公の三者です。地蔵が教えを説き、道明が宝珠を受けて咒を唱え、護法の閔公が鬼差に連絡し、鬼差が助けを受ける人を連れてきます。地蔵の乗り物となる諦聴も傍らにいます。教えること、唱えること、迎えることがそれぞれに行われ、苦しむ生命へ助けが届きます。
蓮華や光に表れる意味
仏や菩薩の像に見られる蓮の台、宝珠、錫杖は、その姿と働きを表すものです。第二十九章の地蔵は青い蓮華に坐り、左手に桃色の宝珠、右手に金色の錫杖を持ちます。左に道明法師、右に閔公、傍らに諦聴がいます。この蓮華は坐るための台ですが、阿玉が往来に使う白い蓮華は乗り物です。同じ蓮華という名でも、安坐する場所と、行き来するためのものという用途があります。